Reikaの徒然草(改)

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この感情は何?悲恋モノの仮面を被った美しき呪いの物語ー桜嵐記 感想

色んな作品の感想文ほったらかしまくって、あぁもう、ってなってます(笑)。

現時点で書庫に壬生義士伝新公感想②とエリザ各組上演論の下書きがあって、それ以外にも「これのブログを書こう!」ってメモを確認すると、夢千鳥配信とスリル・ミー配信とM!感想は少なくともあげなきゃいけないらしいです(笑)。それ以外にも書かなきゃ、ってなってる感想あるんですが、まぁそのへんは急がなくてもいいかな、と思ってるやつなんで(笑)。

それ以外にもpixivとかその他某所にとっちらかってる創作とか(笑)色々仕上げちゃいたいなぁと思いつつ、とにかく記憶にあるうちに感想は展開していかないとと思うので、まずは桜嵐記から。

 

kageki.hankyu.co.jp

 

もともとこの公演に関しては我が贔屓珠城りょうの退団公演であり、正塚晴彦と並ぶ我が最推し演出家・上田久美子2021年2作目ということでもともと楽しみでした。

太平記も(さいとう・たかをの漫画での知識がほとんどだけどw)面白いんですよ、男の嫉妬のドラマとかねw

で、れーことたまきちで兄弟をやる、ってことだったんで、どうせその二人で兄弟物をくーみんの脚本でやるのなら足利尊氏・直義兄弟の愛憎モノをやってほしかったなーwwって最初は思ってたんです。

で、いざ実際に観劇してみて、

私一体何を見せられているんだ…?

ってなりました。

私現在2021年7月23日時点で本作5回観劇しているんですけど、初回が一番前方席で、それでもろ喰らいしてしまった、ってのはあるかもしれないんですけど、初回観劇時にはあまりの衝撃にくーみんの描こうとする意図がまるで理解できず(いや、物語ろうとしている内容はわかりますよ?だけど一応は美しき悲恋物を謳っているのに実情が全然違う物語を見せられたら流石に固まりますよ(笑)。しかもその物語が呪いの物語であればなお…)、終演後は客席からしばらく立ち上がることができませんでした(笑)。

 

物語は最初南北朝時代の説明と、楠一族の美しい戦いの紹介の後、北朝側の高師直の傍若無人ぶりと、楠木正行の人としての心の正しさ、弁内侍との少女漫画のような出会い、楠一族のほのぼのとした幸せな生活ぶりを丁寧に描いていくことから始まります。

楽家トリオがいたとはいえ、序盤から割とどよんとした展開だったfffに対し、北朝のシーンの毒々しさはあれど、笑いもそこそこあり、くーみんにしては優しい感じで進み、恋模様もいい塩梅に進むけれどもそうは問屋が卸さないのが我らが久美子で(笑)。

雲行きが怪しくなるのは高兄弟と尊氏の面会あたりから。

北朝に関しては最初に高師直の傍若無人ぶりを描いているため、観客から見ると既に悪役印象がある。だけどここで師直の説く武士は欲得ずくで動くもの、という哲学に関してはある種潔いまでの筋の通りっぷりで。このシーンの人間の欲の極地っぷりは気持ち悪さを感じつつも自分の心に突き刺さる部分もあり、ここだけで心が淀んでくるのですがここですら久美子の呪いのための準備段階(笑) 本番は吉野の御所から。

現代の我々の目から見れば南朝のほうが破れた者であることを知っているし、それを知らない人でも北朝のほうが圧倒的に強く、楠側にはほとんど勝ち目がないことは明らか。にもかかわらず古臭い頭のままの貴族たちは尊氏たち北朝側を許そうとはせず、壊滅するまで正行たちを戦わせようとする。その無理解に観客は腹を立てるのだけれど、彼ら南朝の貴族たちがそうまで楠たちに憎しみを焚きつける理由がすぐに明らかになる。

 

後醍醐天皇の恨みの記憶によって。

 

壮絶なのは北畠親房の恨みの記憶。親としては援軍を送り奥州で戦う息子を助けてやりたい気持ちは山々だけれど、すでに武士からの求心力を失いつつあった後醍醐天皇には余剰の戦力などなく。親房はやむなく息子を見殺しにする。

本来であれば援軍をくれなかった後醍醐天皇を恨むべきなのかもしれないけれど、後醍醐天皇に破格の地位を頂いた身、南朝の貴族として既得権益を貪ってきた身の誇りとしては、その怒りは息子を死に追いやった北朝へ向かい、延々と尽きせぬ恨みと憎しみの連鎖が続いていく…。

 

しかも顕家が南朝の荷物とならないように自害の道を選んだとき、親房が顕家にかける言葉は、「…見事に死んだ…!」なんですよね…(息子の顕家は顕家で「力及ばず…」と言って死ぬし)。あんなに耄碌した、もう自分の言っていることをちゃんと認識できているのかすらわからない、老いて、自分の考えが正しいと頭が縛り付けられている天皇のために、自分の息子の死さえも誉れとしなければならない、これが強烈にぶっ刺さりました。たとえ理不尽だと思っても、南朝の人間としての生き方が骨身に染み渡りきっている親房としてはそのように生きていくしかない。

そして南朝側の人間たちはみなそうだったのだと思います。現代の私達でも理解できる、愛する者を敵対する者に奪われた憎しみ、そしてそれを超える、現代の私達には理解しがたいほどの、「持つ身分の者」たちの、既得権益に対する恐ろしいほどの執念・妄念、それを奪われた・傷つけられたことによる怒り・恨みのパワーが、後醍醐天皇の姿を借りて作品全体を覆い尽くす。もう個人的にここだけでズタボロになります(一樹さんの妄念がほんとにすごい…!)

 

後醍醐天皇の妄念は正行の父、正成の姿も引っ張り出してまで、正行の憎しみの感情をさえも引き出そうとする。や、その感情を引き出しているのは本当に後醍醐天皇の妄念なのか、南朝の生き残りたちが都合の良いように死せる後醍醐天皇や正成の影を用いて楠兄弟の憎しみの感情を焚き付けているだけなのか、あるいは楠兄弟たち自身がこの戦いは親の敵を討つという義がある戦い、という都合の良い夢を見ているに過ぎないのか…。

これ、ただ後醍醐天皇南朝貴族の妄念・執念だけを見せられているだけなら気持ち悪くならないのに、万人に共通する愛する家族を敵に殺される、その悲しみ・苦しみという感情を見せられるからこそ、呪い・恨みが強烈なんだよね…。南北朝に限った話じゃない、今なお愚かな争いが続く理由がここにあることを思い知らされる。誰もが正行のように強く、理性的ではない。敵対する者を憎み、相手を滅ぼそうとするほうがよっぽど楽だから。

 

強き心を持つ正行はこの負の感情に飲み込まれこそしないものの、最後の最後まで何故に戦っているのかを悩み続けていたけれど(ひょっとしたら最後まで本当には答えが見つかっていなかったかもしれない。そもそも尊氏に大見得きったときですら、本当には戦う理由を見つけてなかったと私は思ってるし(これみよがしに誰かさんはせり上がってくるけどなw))、心弱き後村上天皇はものの見事その負の感情、恨みのパワーに飲み込まれる。そして「許しておくれ」と言いつつ正行に恨みの戦いを続けることを強いる(私個人的に、一見優しくて正行の理解者っぽく見えるこの人が一番南朝の中でひどくてズルいと思うんだけどねw)。

後醍醐天皇南朝が剛の負の力で楠を滅びの道に追い込んだとするなら、後村上天皇は柔の負の力で楠を滅びの道へ導いた。その呪いと恨みに飲み込まれて滅んだ正行の物語こそがこの物語の主軸であり、吉野の春の美しさやそこで展開される悲恋の美しさについてはこの呪いをカモフラージュ・目眩ましするための道具立てでしかない。

(正直弁内侍→正行の恋の感情はともかく、正行→弁内侍の恋の感情はあるのかなぁ、というのが観劇しての感想。ある種の吊橋効果に近いものに過ぎなかったんじゃないのかなぁ、と。中の人事情wだけではないと思うんだよなあ)

 

fffが政治物・音楽理論物に見せかけて壮大なラブ・ストーリーだったのと反対に、桜嵐記は美しい悲恋物に見せかけて政治・社会批判の色味もありつつ、何より強烈な呪い・恨みの物語です。

 

さらにくーみんはひどいので(←)この美しさを残酷な表現手法として用いるんです。

そのあたりとか尊氏の楠観とか、もっと書きたいことはいっぱいあるんだけれど、話がまとまらないので、一旦こちらでパート1としてまとめたいと思います(←)

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